第2章 異なる文化と付き合う 【2/5】

異なる文化を持つ人と接し、仕事をするとはどういうことか

 

2.2. 「文化の壁」は存在する。

 

 それでは上にて考えました文化の意味を踏まえ、海外の人とのコミュニケーションで生じる「文化の壁」が何であるのか、そして何が異なる文化や習慣を持つ人とのコミュニケーションを難しくしてしまうのかを考えていきましょう。

 

 「文化の壁」の問題が生じるのは、意思の疎通を図ろうとする相手の文化と自分の文化が異なるときです。これは冒頭に触れました「言葉の壁」によるコミュニケーションの問題が生じるときとよく似ています。「言葉の壁」の問題が起こるのは、それぞれが理解できる言語が異なることが原因でしたが、「文化の壁」の問題は、それぞれが使う言語ではなく、それぞれが持つ「思考方法と価値観」が異なることが原因となります。

 

 文化をまたいだコミュニケーションが難しい理由は、生活する上で誰もが持つ「常識」と「非常識」の線引きのされ方が、国や地域(社会を構成する人々の集まり)によって違いがあるから、ということが言えます。人は誰もが喜び、悲しみ、怒り、それに不快感を持つなど、様々な感情を抱きますが、何が原因でそういう感情を抱くに至るのか、つまりどのような言動・状況・環境等がその人をそう気持ちにさせるのかは、その人の国の文化や習慣の違いによって異なることがあるということです。

 

 人は自分が持つ思考方法や価値観を基準として自分に関わる事柄を判断していきます。人は誰でも自分が持つ価値観を「当たり前」として物事を判断するとも言えるでしょうか。これは、人は皆わがままであるとか、自己中心的であるということを意味するものではありません。自分が持っている価値観という「ものさし」で自分の周りの物事を測るのは、人間なら誰でも行う自然な行為です。

 

 これを踏まえ異なる文化を持った人たちがコミュニケーションをとっている状況を考えてみましょう。そこではいったい何が起きているのでしょうか。このような環境では、必然的に異なる「当たり前」を持った人たちがある特定のテーマについて話をするということになります。コミュニケーションに参加する人の文化の違いにより、「当たり前」が必ずしも一致しない人たちと話をするのですから、コミュニケーションが難しくなることがあるのは当然となります。

 

 もちろん、物事の良し悪しを判断したり、人の感情を左右したりする価値観は、その人の文化や習慣だけでなく、その人個人が持つ意思や信念なども影響します。同じ文化や習慣をシェアする人が、全てにおいて同じ意見であるということは決してありません。また、これの反対も成立します。つまり、異なる文化を持つ人が全てにおいて、異なる考え方や価値観を持っているわけでもありません。海外の人とのコミュニケーションで意見や考え方に違いが出たとしても、すぐに「文化の壁」と結びつけることは、必ずしも正しいことではないかもしれません。

 

 しかし「文化の壁」は間違いなくは存在します。同じ文化や習慣をシェアする人々が、同様の価値観を持つことがあるのも事実だからです。

 

 文化の違いによって見られる価値観の違いの例として、時間感覚の違いがよく用いられます。ビジネスで行われる会議やミーティングなどの時間を守ることについては、文化が違ってもそれ程感覚の差は出ないでしょう。しかし、パーティーに出向くときなどプライベートの場では、時間感覚の違いがよく出ます。我々日本人は、パーティーの開始時間に対しても厳守するタイプとされています。自分も時間を守るし、他の人に対してそれを期待することが「当たり前」と感じます。別の言い方をすると、日本人は時間を守ることに対しての許容範囲が狭い人たちと言えます。これに対し他の国の人たちは、日本人とは異なる許容範囲を持っています。15分遅れてパーティーに到着することが「当たり前」の国もあれば、30分や1時間遅れても、更には2時間以上遅れたとしても、誰もその人が遅刻したと思わない文化もあります。(例えば、スペインやメキシコの文化は、時間に対して許容範囲が比較的広い文化とされています。)

 

 「文化の壁」は時間感覚以外にも、日常生活習慣に密着した部分にも存在します。日本の文化を例に、考えてみましょう。例えば温かい春の日に、満開の桜の花びらがひらひらと舞い降りてくる光景を思い浮かべた時、我々日本人はどんなことを思い浮かべるでしょうか。日本人にとって桜の花は、春先に咲くきれいな花ということだけでは片づけられません。なぜなら桜には、それ以外の要素がたくさんあるからです。

 

 毎年多くの人が、たとえ混雑するとわかっていても公園や寺院など桜を楽しめる場所を訪れ花見をする習慣は、日本独特です。日本には桜以外にもきれいな花が咲く時節はたくさんあるのに、桜の時期だけが社会全体を巻き込んだイベントになります。不思議といえば、不思議ですね。

 

 日本では、桜は花以外の事柄を象徴する存在でもあります。桜は新しい始まり(入学、新学期、新年度など)を象徴します。また、桜の花が咲くことは願いがかなうなど、よいことが起きるという意味もありますし、逆に「桜が散る」と聞けば、思いが叶わなかったことを意味します。(散る桜はこれ以外にも、美しさ、儚さ、潔さなどの象徴としても引用されます。)さらには、ラグビーの日本代表ユニフォームのエンブレムになっているように、桜は日本という国そのものを象徴するものでもあります。こうした見解は、日本人にとっては「当たり前」の感覚・価値観ですが、日本人以外の人に同じ感覚を持つのを期待することはできないでしょう。(この他にも、桜と言えば西行を連想し、有名な短歌、「願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」を思い浮かべる、という人もきっといるでしょう。)

   

 我々の生活の中には、「日本人なら分かるでしょう!」と言えば他の人々の共感が得られる事柄があります。また、それは一人ひとりが持っている意思や価値観とは異なる次元で存在しています。我々日本人の中には、世代を通じて築き上げられた思考方法や価値観が、つまり文化というものが確実に存在しているのです。

 

 我々日本人の中に独自の文化と習慣を背景とした「当たり前」が存在するということは、他の国々にも同じように、独自の価値観が存在していたとしても、何もおかしいことはありません。つまり、A国の人々には、「A国人なら分かるでしょう!」という事柄が存在することになります。

 

 この違い、つまり「当たり前」だと思っていることのギャップが、「文化の壁」となって、海外の人々とコミュニケーションをとるときに、我々の前に姿を現すことになるのです。 

 

 

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