自国のことが、おろそかになる…?

 

英語などの、自分の国以外の言葉や文化、習慣などの習得を、早い段階(比較的年齢が低いとき)から行うことを危惧する考えがあります。基本的に、自国のことがおろそかになる、という考えが問題視するベースにあるようです。

 

他国のことを学ぶために費やす時間が多くなる代わりに、自国のこと(正しい言葉使い、歴史、伝統文化など)を学ぶ時間が短くなり、身につかなくなってしまう。結果として、外見は「日本人」であっても、中身は中途半端な人間になってしまう、というものです。 どう思われますか?

 

 

    住む地域、住んだ時間の違いを超えて
    住む地域、住んだ時間の違いを超えて

 

これとは逆に、他国の言葉や文化、習慣に振れたことがない、または理解できていない人が、いくら自国のことを学ぼうにも、すぐ限界にぶつかってしまう、という考え方もあります。 こちらについては、どう思われますか?

 

後者についてはもう少し説明が必要かもしれません。 他国の言葉や文化、習慣を理解することは、元から自分に備わっていない表現方法や価値観、そして物事を判断する基準のようなものを、新たに得ることに他なりません。日本人として持つ「ものさし」とは別に、違う基準で測る「ものさし」を持つ、といえば分かりやすいでしょうか。

 

自国の物とは別の「ものさし」を得ることができた人は、世の中にはこの他にも多くの「ものさし」が存在していることを受け入れる力を持ちます。同時に今自分が持っている「ものさし」が使える範囲や限界についても理解し、受け入れることもできます。

 

ところが、自国の「ものさし」しか持っていない人は、違いがあることを頭では理解できたとしても、結局自分の「ものさし」を全ての基準にしてしまいます。別にこの人が悪いわけではありません。その人は、自分が使いこなせる「ものさし」はたった1つしか存在しない訳ですから、そうする事しかできないのです。

  

(これは、自国の歴史の理解についても同じです。いくら同じ国の人間でも、何百年前も人々が今の自分たちと同じ「ものさし」を持っていたわけがありません。複数の「ものさし」を持つ人はそこに気づきやすく、また何の未練もなく自分の「ものさし」を脇に置くことができます。そしてその当時の「ものさし」を理解すべく探究することができます。他国のことを学んだ時に既に経験しているプロセスですから、それ程抵抗は感じません。 一方、1つしか「ものさし」を持っていない人は、そのような経験をしたことがない分、このプロセスをクリアすることがなかなかできません。)

 

 

日常の生活でも、手元にある「ものさし」の数による違いは出ます。例えば、物事を説明する際、1つしか「ものさし」を持たない人は、無意識のうちに説明を聞く人たちは、全員自分と同じ「ものさし」を持っているものだと仮定してしまいます。そうなると、その人の話は「説明」から曖昧な「表現」に変わってしまうことが多くなります。「これは言わなくても分かるだろう…」と仮定する部分が多くなるからです。複数の「ものさし」を持つ人は、このような仮定は危険だと感じます。

 

一方、話をする相手が明らかに自分と違う「ものさし」を持った人の場合は、どうなるでしょう? 1つしか「ものさし」を持たない人の場合、このような場では、言いたいことが上手く伝えられなくなるケースが多々出てきます。自分の「ものさし」は役に立たないことは分かっているのに、それを使うことなく話をする術を知らないからです。

 

「日本語は難しいから…」、「日本は他の国とは違うから…」、一見正しい理由のように聞こえます。しかし複数の「ものさし」を持つ人は、他の言葉やお国の事情についても、日本語や日本の事情と同様に難しくて、特殊であることを知っています。

 

 

さて、冒頭の質問に戻りますが、グローバル化が進み色々な「ものさし」を持つ人たちと接することが多くなった今の時代、自国のことがおろそかになるのは、結局のところ、どちらなのでしょう? 

 

皆さんは、どう思われますか? 

 

 

(おわり)

 

 

追伸:

新しい「ものさし」は、やる気さえあれば年齢に関係なく、いつでも誰でも得ることができるものです。この世界に、「もう遅い…」は存在しません。

 

 

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