私の「飛ぶが如し」

この「飛ぶが如し」とは、吉田松陰が1853年に浦賀に停泊した黒船に対し、自身の心中を伝えたとされる、有名な文章の一部です。

 

原文は以下の通り:

「浦賀へ異船来たりたる由につき、私ただ今より夜船にてまいり申し候。海陸ともに路留めにも相なるべくやの風聞にて、心はなはだ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し。」

 

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私が通った大学は、アメリカ中西部のど田舎にある、全校生徒が2000人程度の小さな大学です。生徒のほとんどは、キャンパスの中にある寮で生活しますが、特に1年生は全員寮で生活することが義務付けられていました。(ここでの4年間は、私の人生の中で、これほど勉強で絞られ、悩まされ、苦しんだ期間はない4年間だったわけですが…。まぁその話は、別の機会にお伝えしたいと思います。)

 

さて、同級生の人数が500人もいない小さな学校で、また、ほとんどの生徒が寮で生活する環境では、他の生徒と知り合いになるのにそれほど時間はかかりません。今回ご紹介する人とも、顔を合わせたらお互いを名前で呼び合い、挨拶する仲になるのにそれほど時間はかかりませんでした。

 

 

   あの時、松陰は結局会えなかったけど…
   あの時、松陰は結局会えなかったけど…

 

この同級生、名前がMさんという、可愛らしい笑顔が特徴的な女性でした。社交的で、友達付き合いもよく、多くの人から好かれていました。

 

Mさんと知り合いになった当初、彼女が「私は日本に何度か行ったことがある。行く度に、会う人によくしてもらえるので嬉しい、本当にいい思い出だ。」と、教えてくれたことを覚えています。また、別の友人からは、Mさんの曾お爺さんか、曾々お爺さんか、そのまたお爺さんかが、大変有名な軍人だったということも教えてもらいました。

 

その時は、Mさん以外にも日本に行ったことがあるというクラスメートはいたので、別に特別な感情は持ちませんでした。また、家系についても、彼女が明るく活発な中にも品があるのは、そういう家系の人だからかなぁ~、と思った程度でした。Mさんとはその後も会えば挨拶をしたり、雑談をしたりする程度で、私にとっては友人のサークルの中の一人といった存在でした。

 

Mさんに対して、ん?ちょっと待てよ、と思ったのは、3年生になったときだったでしょうか。実家から持ってきた司馬遼太郎さんの小説「世に棲む日日」を読んでいた時でした。 物語の中で、吉田松陰が何とかして黒船に乗り込み、アメリカに行こうとするくだりを読んでいるとき、ふと、こんなことを思いました。

 

『ああ、そういえばMさんは軍人の家系だったと誰かが言っていたなぁ…。Mさんの名字は何だったっけ…。あ、そうそう、ペリーだったな…。 えっ、ペリー!? 』

 

そうなんです。なんとこのMさん、あの黒船のペリー司令長官の家系の人だったのです。こんなアメリカのど田舎の大学でそんな人がいるなんて、ましてやそんな人が自分の同級生だなんて、びっくりする以外ありません。

 

それ以来彼女と顔を合わすと、吉田松陰や高杉晋作などの幕末の志士が頭によぎる、なんてことはないですが、偶然にもこんなMさんと知り合いになれたことを、本当に光栄に思っています。

 

 「…心はなはだ飛ぶが如し、飛ぶが如し。」

 

 

(おわり)

 

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